ものをなくす、という日常茶飯事。
「ものをなくす」。
年を取ってくると、これが日常茶飯事になってくる。
「必要なものなのに見当たらない」
「いつもここにいれておいたはず」
「確かに取っておいたはずなのに」
……ないのである。
もちろん、自分だって例外ではない。
確かにあったことだけは記憶に残っているのに、
「大事なものはここにまとめておこう」とか、
「入れたと思い込んでいた」記憶は上書きされていたりとか、
そもそも無意識で動かしてしまったりとか。
なるべくそうならないように意識するようにはしているが、実家の場合も義実家の場合も、家探しをすることが極端に増えた。
それはたいていが、大事な書類だったりするのである。
高齢になると、福祉関連を含めいろいろな手続きの書類が増えてきて、その段になってから「あれがない」「これがない」が発覚するのだ。
で、今回の「ものをなくす」話である。
朝、別の書類に確かに押したはずの印鑑が、あるべき場所に見当たらない。
自分が昼に行ったときには、もうなかったのだ。
なぜ? どうして? 神隠し?
印鑑を押したという部屋の、引き出しという引き出しの隅々まで、何度も同じ所をていねいに探したけれども見つからない。
こういうとき、押した後どうしたか?どこへしまったかという記憶は、だいたい皆曖昧なのだ。「ここにいつもしまっている」という普段の記憶しかない。肝心なところは誰も覚えていないのである。
結局、その日1日探して見つからず。こういうときは、経験から言って何でもないときにふっと出てくるものなので、まあ数日たっても出てこなかったら、書類用の印鑑をあらためて申請しなおしましょう、ということになった。
ただ、銀行印でもあったようなので、それだと本人が行くか委任状を持っていかねばならないのはちょっと面倒だ。
(銀行印では昔から苦労させられている……印影が合わんとか……遠い目)
そして数日後。
思ったとおり、母から「印鑑あった!」と電話があった。
顛末は、結局父が発見したとのこと。「いつもここに入れている」と言っていたのとはまったく違う、見たことのない小さなポーチに印鑑は入っていた。まさに、「大事なものだからこれに入れておこう!」である。うーむ。引き出しの奥のほうにあったのではないか、と母は言うが、見逃したのは口惜しい。
というわけで、教訓。
「大事なものは、決めた場所から動かさない」
「大事なものは、家族みんなである場所を共有する」
大切なのは、記憶を上書きしないことだ。イコール、上書きしたほうを忘れるから。
ここにしまっておいたはず、という場所にちゃんとしまっておかねば、後々こういうことになるということを痛感した印鑑騒動であった。
そして、大事な書類(医療保険証、介護保険証、運転免許証あるいは運転免許経歴書、マイナンバー通知書あるいはマイナンバーカード、株の証書や家の権利書など)そして印鑑・通帳については、
「どこに」「誰の」「何が」
しまってあるのか、大事なものを置いてある場所をきちんと親に確認しておく必要がある。別居しているならなおさらのこと。
まだ大丈夫、ではなくて、大丈夫なうちに聞いておくのだ。
ほんまこれ大事! うおー!