立ち向かう楽観主義、ふたたび。

薬局おばあちゃんに考えさせられたこと。

風邪をこじらせてしまった流れで、2回目の点滴をした。
発熱やひどい咳、鼻水などに症状が変わったため、薬を変えてもらうことにして隣の調剤薬局へ。

 

調剤薬局へ。○トちゃんはいない。

調剤薬局へ。○トちゃんはいない。

 


すると、椅子にひとりの老齢女性が荷物と共に座り込んでいる。
仮に、薬局おばあちゃんと呼ぶ。
かなりお年を召しておられるようだ。

 


彼女の目線の高さにしゃがんだ薬剤師さんが、一所懸命

 


「ご家族のお名前は? 思い出せる?」
「財布の中とかに、何か住所とか書いたものはないかなあ」

 

 

などと話しかけていて、これは薬局おばあちゃん、自分の家がわからなくなってるな、と気づいた。

 


断片的に「誰か家族と一緒に住んでいるけど(仕事とかで)いないかもしれない」と言っているのだが、その名前や連絡先も思い出せない状態だ。
ううむ。これはよろしくないな。

 

これはかなり困った状況だ。

これはかなり困った状況だ。


調剤薬局へ来ているということは、隣の病院での受診が終わって、薬を取りに来たということだ。
保険証には住所が記載されているから、カルテを見ればわかるはず。

 

 

どうやら薬局側も住所はわかっていて、それを本人に確認しているらしい。ああ、でも電話番号まではどうかな。

 

薬剤師さんはタブレットで地図を調べているようだ。

 

 

「おばあちゃん、おうちの近くに歯医者さんとかある?」


などと確認している。
本人は至ってのんびりと「あったかなー」のようなニュアンス。
しかも、めっちゃたくさん荷物持ってるやん。
どうやって来たんだろう……誰かが後で迎えに来るはずなのか、何かの行き違いになったのか。


結局、お財布を出してもらったところお札があったようで、これでタクシーで帰れるね、という方向に話が行くようだった。
でも……家に帰っても、鍵がなくて家の中に入れなかったらそれも困るだろうなあ、と思っているうちに自分の名が呼ばれた。

 

 

まったくもって、他人事ではない。
実家の父親も、時折思いつきで勝手にどこかへ行こうとしてしまい、今とても困っているからだ。

 


今回の薬局おばあちゃんの件で、あらためて確信。

 

「自分の個人情報」(名前とか住所とか)
「連絡先」(母や家族のケータイ番号など今現在その人を探してる人)

 

きちんと「迷子札」のように整えて、持っておいてもらわなければ。
これは、母も同じ。
まだまだしゃんとしている彼女には、笑い飛ばされるだろうが。
備えあれば憂いなし。あるけど。あります。

 

たとえば、こういうシニア用の迷子札。
ジャンルはなんと、介護ではなく「防犯・防災用品」。
なるほど……災害時に身元を証明するもの、という意味もあるのだな……。

 

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ひとの記憶って、本当に曖昧なものだ。
「これゼッタイ」と確信していたことでさえ、いつの間にか記憶が書き換えられていることがある。そして、それに気づかないことも多々あるのだ。

 

祖母は晩年、娘である母の顔も名前も忘れてしまった。
自分を守り育ててくれた大切な親から、ある日「どちらさん?」と首をかしげられたら、自分ならもうどうしていいのかわからない。
号泣してしまうか、怒鳴り散らすか、あるいは呆然とするか。

 

 

それでも、人は生きていく。
年老いても、命ある限り。

 

 

少し前にTwitterで「満を持してボケた祖父の話」を読んだ。


70歳で免許を自主返納、75歳でGPS付きキッズケータイを自ら契約。80歳では持ち物に記名を始め、82歳で「満を持してボケる」。
認知症を発症する10年も前から、自分で対策を講じてきちんと準備していたすごい方の話である。

 

 

 


ここまで完璧にできる方もなかなかいないとは思うが、生き様として見習いたい。

 


ただ漠然と、「わしゃ子の世話にはならんー」では全然具体性がないな、と反省することしきり。
今思うことと、そのときになって思うことは違う。
病気になって弱気になるかもしれないし、性格が野蛮に変わるかもしれぬ。
(今でも……だいぶ野蛮か……)

 


自分は、どのように人生をクローズしていくのか。
そんなところまで思いを馳せた、薬局おばあちゃんの一件であった。
やっぱり……シューカツ始めないとな……(何十回目の決意)

 

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